うす汚れたみじめな現実
学生時代までの私は、観念的に自分が正しくとか、自分を人間として磨いていこうという、ある種の高みへの欲求があったんです。ところが、どう観念的であろうと、弱く、うす汚れた、そしてみじめな現実が目のまえにあるわけです。言葉では言いあらわしがたい悲惨な現実、それには、こうあるべきだという観念的な発想は通用しない。だから、そうしたものをかなぐり捨てて、自分もいっしょになって取り組まざるをえなくなっていったんです。
横川和夫「降りていく生き方 『べてるの家』が歩む、もうひとつの道」