幸福は一夜遅れて来る
諦めの悪い人間
穴を掘っている背中に銃を突きつけられて穴を掘っている自分が入る穴を掘っている全くくだらない一生だったな笑えるぜ頭に来るぜ なんで僕ばかりこの人生をバラバラにしちまう勢いで穴を掘っている穴を掘っている穴を掘っている穴を掘っている
amazarashi『穴を掘っている』
amazarashi『穴を掘っている』“Digging Holes” - YouTube
自己崩壊と迫りくる魂の死(昨日の続き)
つまり、自己価値の感覚がおびやかされるために、「劣っている」という意味で、自分を悪いものと感じてしまうのである。こういう体験の激しさは、言うまでもなく、かれ自身の欲求の強さに比例しているが、まさにこの欲求の強さが、自分は悪いものだという感じに「欲ばりすぎ」という性質を付与することによって、自分の劣悪感をますます大きなものにしてしまうのである。また、この劣悪感は、かれが同時に経験している完全な無力感とあいまって、さらにいっそう複雑なものになってしまう。ところがこれよりさらに一段と深いレベルでは(あるいはこれよりさらにいっそう早い段階では)子供の経験は、言わば実りのない爆発の経験と、リビドーの完全な枯渇の経験に、なっているのである。このようにしてそれは、自己崩壊と迫りくる魂の死の、経験となるのである。
フェアバーン「対象関係から見た内的精神構造」
情緒的真空地帯
また同時に、子供が母親から拒絶されているのに、母親にむかって自分のリビドー欲求を表現するとしたら、言い換えるなら、自分の中に生れ出ようとしている愛情を表現するとしたら、それもまた危険な行為となる。なぜならそのような行為は、自分のリビドーを言わば情緒的真空地帯の中に放出しているのと同じことだからである。
こういう放出行為には、1つ並外れて荒廃した感情体験がつきものである。比較的大きい子の場合には、こういう体験は、そこに含まれているように感じられるところの、自分の愛情を軽視されたことへの強烈な屈辱体験となる。 これよりいくらか深いレベルでは(あるいは、これよりももっと早い段階では)こういう体験は、自分の欲求を無視されたり軽んじられたりしたことへの、羞恥体験となる。このような屈辱体験や羞恥体験が重なると、子供は自分が無価値なもの、見捨てられたもの、あるいは、こじきのようなものになりさがったように感じてしまう。
フェアバーン「対象関係から見た内的精神構造」
良きゲームを祈る
「でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね。」